「プレミアリーグ史上最大の奇跡」
そう称される2015–16シーズンのレスター・シティ優勝。
そのチームの中心にいて、ひたむきな献身で世界を驚かせた男が、岡崎慎司選手です。
2024年5月、ベルギーのシント=トロイデンVVでの試合を最後に、岡崎選手はスパイクを脱ぎました。
Jリーグ・清水エスパルスからスタートし、ドイツ、イングランド、スペイン、そしてベルギーまで、まさに世界を駆け抜けたキャリア。
そして今、彼は指導者としての第二の人生を歩み始めています。
ピッチ上で戦う姿勢、どんな状況でも“走り続けること”をやめなかった信念、そしてチームのためにすべてを捧げた献身の姿勢。
ここからは、その岡崎慎司選手の歩みを、エピソードを交えながら、じっくり紐解いていきましょう。
岡崎慎司|今現在の活動と次の挑戦
2024年2月、ファンに惜しまれつつも現役引退を表明した岡崎慎司選手。
最後の試合となった5月12日のシント=トロイデンVVでのラストマッチでは、全力疾走を惜しまない「いつもの岡崎」がそこにいました。
引退後すぐに、岡崎選手は2014年に自ら設立したドイツのクラブ「FCバサラ・マインツ」の監督に就任。
彼の哲学である「走る・戦う・諦めない」がチームの根幹に息づき、実際に5年連続昇格という快挙を成し遂げていることからも、その影響力の強さが窺えます。
また国内では、「マイスターサッカースクール」を通して次世代の育成にも力を注いでおり、特に2022年に始動した「FC BASARA HYOGO」は、関西からJリーグ入りを目指す意欲的なプロジェクト。
岡崎選手の熱い思いが形となり、着実に実績を重ねています。
本人は「膝の状態が限界だった」と引退の理由を語っていましたが、その口調からは次のチャレンジに向けた前向きな決意が満ちていました。
これからは、戦術家として、育成者として、新たな“岡崎慎司”を見せてくれる。
そんな期待感でいっぱいです。
岡崎慎司|今までの経歴と所属チーム・幼少期エピソード
岡崎慎司選手のサッカー人生は、小学2年生での“ちょっと遅め”のスタートから始まります。
兵庫県宝塚市で育ち、兄の影響でサッカーを始めた岡崎少年。
意外にも、運動神経は特別に抜きん出ていたわけではなく、技術もまだ粗削り。
しかしそこから、「人一倍走る」「諦めない」ことを武器に、自分のスタイルを確立していったんです。
実は岡崎選手、お母さんが元インターハイ優勝経験を持つテニスプレイヤー。
アスリート気質は血筋ともいえるでしょう。
中学時代は地元の宝塚ジュニアFCに所属しつつ、三田市立けやき台中学でもプレー。
この二重所属の環境で、実戦経験を積みながら、県選抜にも選ばれるほどに成長しました。
そして高校では、兵庫の強豪・滝川第二高校に進学。
ここで興味深いのが、1年生の岡崎選手が3年生の兄・嵩弘さんと“兄弟2トップ”を組んで全国高校選手権でベスト4進出を果たしたというエピソード。
後にプロになる森島康仁選手や木島悠選手と一緒に、岡崎選手はキャプテンとしてチームを牽引しました。
高校時代の岡崎選手は、すでにプレースタイルが固まり始めていました。
ボールタッチやドリブルよりも、「常に相手DFの背後を狙う動き」「走り続ける体力」「ゴール前の嗅覚」。
どれも派手ではないけれど、チームに不可欠な存在へと進化していったのです。
2005年、清水エスパルスに加入した当初は、FW8人中“最下位評価”だった岡崎選手。
でも、その評価が彼の闘志に火をつけました。
チーム内での立場が厳しいからこそ、限界まで走り、泥臭くゴールを狙うスタイルを徹底し、プロとして一歩一歩着実に評価を上げていくのです。
この“下から這い上がる経験”こそが、岡崎慎司という選手の芯の強さを育てた原点。
後に世界最高峰のプレミアリーグで“奇跡”を起こす男が、こうして静かに産声を上げていったのです。
所属クラブと年俸推移|常に“挑戦”を選び続けたキャリア
岡崎慎司のキャリアは、まさに「挑戦」の連続でした。
日本から世界へ――その歩みを年俸の推移と共に追うと、努力と信念に裏打ちされた軌跡が見えてきます。
清水エスパルス時代(2005〜2010)
プロキャリアの第一歩は、Jリーグの清水エスパルス。
初年度の年俸はわずか450万円。
FW登録8人中8番目の評価という厳しい立場からのスタートでしたが、走り続け、戦い抜き、地道に信頼を勝ち取っていきました。
2009年にはリーグ戦14得点で日本人得点王となり、翌年には年俸は3500万円まで上昇。
国内トップストライカーの仲間入りを果たします。
年度 | 所属クラブ | 年俸 |
---|---|---|
2005 | 清水エスパルス | 450万円 |
2006 | 清水エスパルス | 450万円 |
2007 | 清水エスパルス | 900万円 |
2008 | 清水エスパルス | 1500万円 |
2009 | 清水エスパルス | 2500万円 |
2010 | 清水エスパルス | 3500万円 |
ドイツ挑戦(2011〜2015)
2011年、満を持してブンデスリーガ・シュトゥットガルトに移籍。
年俸は一気に1億4500万円に跳ね上がり、欧州での挑戦が始まります。
2年後には同リーグのマインツへ移籍。
ここでは、日本人最多となるシーズン15得点(2013-14)を記録。
年俸も3億8000万円まで上昇し、岡崎の名はドイツ全土に広がっていきました。
年度 | 所属クラブ | 年俸 |
---|---|---|
2011–2013 | シュトゥットガルト | 1億4500万円 |
2013–2015 | マインツ05 | 3億8000万円 |
レスター・シティ時代(2015〜2019)
2015年、プレミアリーグのレスター・シティFCへ移籍。
年俸はついに4億5000万円に到達。
岡崎は献身的な守備と走力で“影のヒーロー”と呼ばれ、クラブ創設以来初のプレミアリーグ優勝(2015-16)に大きく貢献。
歴史的快挙の立役者として、世界のサッカーファンの記憶に刻まれました。
年度 | 所属クラブ | 年俸 |
---|---|---|
2015–2019 | レスター・シティFC | 4億5000万円 |
スペイン・ベルギーでの晩年(2019〜2024)
その後、スペインへ渡り、マラガ(契約未成立)を経てウエスカ、カルタヘナなど複数クラブを転々とします。
マラガでは選手登録が無効となる不運も経験しましたが、ウエスカではセグンダ・ディビシオン優勝を達成し、再び脚光を浴びました。
現役最後のクラブはベルギーのシント=トロイデンVV。
正確な年俸は非公開ながら、40歳近くまで第一線で走り続けた姿勢に、サポーターからは敬意の声が多数寄せられました。
年度 | 所属クラブ | 年俸 |
---|---|---|
2019 | マラガFC | 4億5000万円 |
2019–2021 | SDウエスカ | 4億円 |
2021–2022 | FCカルタヘナ | 非公開 |
2022–2024 | シント=トロイデンVV | 非公開 |
岡崎慎司|年俸のまとめと今の年収や収入源
岡崎慎司選手の年俸推移を振り返ると、その数字一つひとつに「努力と信頼」の証が詰まっているのが分かります。
Jリーグの清水エスパルスでスタートした初年度は、わずか年俸450万円。
FWとしての評価は「チーム内で最下位」という状況からのスタートでしたが、その後は出場機会をものにして結果を出し、6年間で3500万円まで上昇。
地に足をつけた成長の歩みが、この金額に表れています。
そして2011年、ヨーロッパに渡ったことで大きな転機が訪れます。
ブンデスリーガのシュトゥットガルトでは年俸1億4500万円。
続くマインツ05では3億8000万円に達し、日本人ストライカーとして欧州での地位を築き上げました。
2013–14シーズンには、日本人最多得点記録(当時)となるシーズン15得点を記録し、この活躍がプレミアリーグ移籍の布石となります。
2015年、レスター・シティFCへの移籍は「運命的」とも言えるものでした。
年俸4億5000万円という高待遇に加え、岡崎選手はクラブ創設以来初のプレミア制覇という奇跡の中心人物に。
「得点よりも献身」を体現する姿は、チームメイトにも監督にも絶大な信頼を受けました。
年俸以上の価値があった選手と言っても過言ではありません。
その後のスペイン、ベルギー移籍では年俸が非公開のクラブもありますが、引退まで第一線でプレーし続けた岡崎選手。
推定生涯年俸は30億円以上と言われています。
引退後の収入源
現在は、サッカー事業を多角的に展開。
主な収入源は以下の通りです。
- FCバサラ・マインツ(ドイツ6部→急成長中)のクラブ運営・監督業
- FC BASARA HYOGO(日本)のJリーグ昇格プロジェクト
- マイスターサッカースクールの経営
- 各種メディア出演(テレビ・YouTube等)
- 書籍出版や講演活動
- スポンサー契約や広告出演
- 不動産・金融などの堅実な投資運用(現役時代から積極的)
とくに注目なのが「選手として得た報酬を、次世代の育成に投資する」という姿勢。
これはまさに、現役時代に徹底して貫いた「チームのために戦う」という哲学が、引退後も受け継がれている証でしょう。
「サッカーを通じて恩返しがしたい」と語る岡崎慎司。
その言葉通り、彼のキャリアはプレーだけでなく、人生全体がサッカーへの献身で貫かれています。
岡崎慎司|全盛期の輝きと獲得タイトルの軌跡
岡崎慎司選手のキャリアで最も語り継がれる瞬間
それは、やはり2015–2016シーズン、レスター・シティFCでのプレミアリーグ優勝でしょう。
開幕前の優勝オッズは5001倍。
全世界が「あり得ない」と思っていた“奇跡”の立役者の一人が、他でもない岡崎慎司選手でした。
「得点よりも献身」を体現したプレー
当時のレスターは、
- FWにジェイミー・ヴァーディ
- 司令塔にリヤド・マフレズ
- 守備にはカンテ
などスター選手が揃っていましたが、
彼らの活躍を支えていたのが岡崎選手の前線からの鬼プレスと絶え間ない運動量です。
ボールを追い、相手DFの自由を奪い、味方のためにスペースを作る
それは数字に表れにくい「泥臭くて尊いプレー」。
その姿勢が監督クラウディオ・ラニエリからも絶大な信頼を得ていました。
クラブ創設132年目で初の優勝。
そんな偉業の中で、岡崎選手はリーグ戦36試合に出場。
まさに“陰のヒーロー”として歴史に名を刻んだのです。
代表での輝き
一方、日本代表でも彼は輝き続けました。
A代表通算119試合50得点
⇒ 歴代3位(※2025年現在)という驚異的な記録
2011年アジアカップ優勝では全試合に出場
⇒ ゴール前の嗅覚とポジショニングが際立ち、大会制覇に大きく貢献しました。
また、2010年南アフリカ、2014年ブラジル、2018年ロシアと、3大会連続でワールドカップに出場し、得点も記録。
とくに2010年大会のデンマーク戦では、本田圭佑からのラストパスを押し込むゴールで、日本のベスト16進出を決定づけました。
海外クラブでの功績
マインツ05(ブンデスリーガ)
⇒ 2013–14シーズン、15得点で当時の日本人最多記録を更新
SDウエスカ(スペイン)
⇒ 2019–20シーズン、2部リーグ優勝を果たし、1部昇格に貢献
主な獲得タイトル一覧
年度所属チーム・大会名タイトル内容
- 2011日本代表アジアカップ優勝
- 2015–16レスター・シティFCプレミアリーグ優勝
- 2019–20SDウエスカセグンダ・ディビシオン優勝(スペイン2部)
個人タイトルも多数
- 2009Jリーグ ベストイレブン選出
- 2013–14ブンデスリーガ日本人最多得点記録(当時)
- 代表通算歴代3位の50得点(119試合出場)
彼のプレースタイルは、何より「チームファースト」。
ゴールだけでなく、泥臭くても勝つために動く姿勢に、国やクラブを超えて、多くの人が心を打たれました。
まさに「数字に表れない偉大さ」を持った選手。
それが岡崎慎司の全盛期の本質だったのかもしれません。
岡崎慎司|最も輝いたエピソードと印象的なプレー
岡崎慎司選手のキャリアで最も「心に残る瞬間」は?
多くのファンが真っ先に挙げるのが、2016年3月、プレミアリーグで決めたあのオーバーヘッドキックでしょう。
「奇跡の優勝」にふさわしい伝説の一撃
レスター・シティFC vs ニューカッスル戦。
0-0で迎えた前半25分、味方のシュートがDFに当たって浮き球になった瞬間、岡崎選手はゴール前で迷いなく身体をひねり、完璧なオーバーヘッドシュートでゴールネットを揺らします。
このゴールが決勝点となり、レスターは貴重な勝ち点3を獲得。
まさにあの一撃が、クラブ史上初のプレミアリーグ優勝に繋がった“ターニングポイント”だったとも言えるんです。
このゴールはBBCの「Match of the Day」で月間ベストゴール候補にも選出され、視聴者投票で2位にランクイン。
決して派手じゃないが、誰よりも熱い男として、イングランドのファンからも高く評価されました。
「日本代表のゴールハンター」としての勲章
代表戦でも数々の名シーンがありますが、特に2010年W杯デンマーク戦でのゴールは記憶に残る名場面です。
すでに本田圭佑選手のFKと遠藤保仁選手のFKで2点をリードしていた日本代表。
後半42分、本田選手が相手GKをかわしてゴール前へ折り返し。
そこに走り込んでいたのが岡崎慎司選手でした。
ゴールへ流し込むあの姿勢、誰よりも「泥臭く」ゴールを獲りに行く姿は、まさに岡崎選手の真骨頂でした。
このゴールで日本代表は3-1で勝利。
決勝トーナメント進出を決定づけた「ダメ押し弾」となったのです。
ファンの心を打った“素直な歓喜”
もうひとつ印象的なのが、レスターの優勝が決定した夜。
岡崎選手はチームメイトのジェイミー・ヴァーディの自宅に集まり、トッテナムの試合を観戦。試合終了のホイッスルとともに、優勝が決定。
その瞬間、岡崎選手はTwitterにこう投稿しました。
久しぶりに我を失うくらい嬉しくて信じられない気持ちです。 https://t.co/PXjmb8mRlf
— Shinji Okazaki (@okazakiofficial) May 2, 2016
「久しぶりに我を失うくらい嬉しくて、信じられない気持ちです」
誰よりもチームのために走ってきた彼の、その飾らない言葉に、多くのファンが涙したのではないでしょうか。
「地味に見えても、誰よりも泥臭く、誠実に戦う」
そんなプレースタイルだからこそ、彼のゴールは、勝利以上の“物語”としてファンの心に残るのかもしれません。
栄光と挫折エピソード|それでも走り続けた“岡崎らしさ”
岡崎慎司選手のキャリアは、まさに「栄光と挫折の連続」。
成功の裏には、何度も訪れた逆境がありました。彼の真価が発揮されたのは、むしろ“順風満帆ではない時”だったのかもしれません。
レスター優勝の裏で支え続けた存在
岡崎選手にとって、最大の栄光はやはり2015-16シーズンのプレミアリーグ優勝。
当時、誰もが「不可能」と言っていたレスター・シティの奇跡の優勝に、岡崎はレギュラーとして貢献しました。
ただし、その実情は決して“エースストライカー”のような華やかさではありません。
なんと、岡崎選手はこのシーズンの全36試合中25試合で途中交代。
体を張って前線から守備をし、味方の得点に繋がる動きやスペース作りに徹した、まさに“黒子役”でした。
岡崎自身もこの交代の多さについて「出るのが早いか遅いかだけ。ピッチに立ったら、いつも全力を出す」と語っています。
彼の哲学は“どこにいてもチームのために走る”こと。それが「影のヒーロー」と呼ばれた理由です。
スペイン・マラガでの突然の契約解除
そんな岡崎選手でも、思い通りにいかないことがありました。
それが2019年のマラガCFとの契約トラブルです。
日本代表での実績、プレミアリーグ優勝経験と実力を買われてスペイン2部の名門・マラガCFと契約。
しかし――わずか2週間後、クラブの年俸総額制限により契約解除となったのです。
岡崎選手自身はすでにユニフォーム姿での記念撮影やファンとの交流も終えており、「なぜ?」と困惑の渦に巻き込まれました。
それでも、彼は不満を表に出さず、すぐに次のチーム探しに奔走。
そしてわずか2週間後、SDウエスカへの移籍を決断。
移籍初年度でスペイン2部リーグ優勝を果たし、見事に“復活”してみせたのです。
エスパルス時代、前歯を折っても戦った男
実は清水エスパルス時代にも、痛みを押して戦った伝説があります。
2010年のJ1リーグ第2節、相手選手と交錯して前歯2本を折る大怪我を負いました。
それでも岡崎選手は「痛みよりも悔しさのほうが大きい」と言い、翌週にはテーピングを巻いて練習に復帰。
この年もJ1で13得点を挙げ、代表入りを勝ち取っています。
栄光の裏に、挫折あり。
そしてそのすべてを「走る力」に変えてきた岡崎慎司。
決して愚痴をこぼさず、どんな逆境でもチームに貢献しようとするその姿勢が、彼を真のプロフェッショナルたらしめているのです。
岡崎慎司|妻や子ども、家族との温かいエピソード
岡崎選手の家族についてお話ししましょう。
実は2008年に一般女性と結婚していて、翌年の2009年1月に第一子が誕生しているんです。
そして2011年1月には第二子も誕生。
面白いエピソードがあって、この第二子誕生の日、アジアカップ2011のカタール戦で香川真司選手が決めたゴール(岡崎選手のループシュートを香川選手が押し込んだ)の後、岡崎選手が披露した”ゆりかごダンス”は、まさにこの誕生を祝福するパフォーマンスだったんです!
家族思いの一面も持つ岡崎選手ですが、スキャンダルとは無縁の選手としても知られています。
むしろ、海外でのキャリアを通じて家族とともに歩んできた姿は、多くのファンの心を温かくしてきました。
特に印象的なのが、レスター・シティFC時代のチームメイト、クリスティアン・フックス選手との関係。
フックスは「ロックダウン中に一緒に過ごしたい選手」として岡崎選手の名前を挙げ、「いつも笑顔で周りも笑顔にしてくれる」と評価。
これって、家族と過ごす時間を大切にする岡崎選手の人柄が、チームメイトにも伝わっていた証なんじゃないでしょうか。
岡崎慎司|泥臭く、真っ直ぐに走り続けた20年の軌跡
岡崎慎司というサッカー選手を一言で表すなら、「泥臭く、まっすぐな努力家」この言葉に尽きるでしょう。
清水エスパルスでプロキャリアをスタートさせ、ドイツ、イングランド、スペイン、ベルギーと海外を渡り歩いた20年間。
数々の国で愛され、結果を残してきたその裏には、誰よりも「走ること」と「献身」を大切にする信念がありました。
中でも、2015-16シーズンのプレミアリーグ優勝は、日本サッカー史に残る偉業です。
優勝チーム・レスター・シティにおいて「影のヒーロー」と呼ばれ、チームのために体を張り続けた岡崎選手の存在は、見えない部分で多くの勝利を支えてきました。
日本代表としても、3度のW杯出場、歴代3位となる国際Aマッチ50得点という圧巻の記録を残し、2011年のアジアカップでは優勝にも大きく貢献。
常に“日本のため”を胸に、走り続けたその姿勢は、今でも多くのサッカーファンの心に強く刻まれています。
引退後は、自身が立ち上げたFCバサラ・マインツやFC BASARA HYOGOの運営を通じて、次世代の育成に尽力。
現役時代から大切にしてきた「走る・戦う・諦めない」精神を、今は若い選手たちに伝え続けています。
地味なようで、実はとんでもなく豪快。
目立たないようでいて、誰よりも大きなインパクトを残す選手
岡崎慎司という男は、日本サッカーの宝物です。
そして今、その宝物は、“選手”という枠を超えて、指導者として、未来を動かす存在になろうとしています。