本田圭佑
その名前だけで、多くの日本人が思い浮かべるのは、世界を相手に堂々と立ち向かう姿ではないでしょうか。
日本代表の背番号10として3大会連続でW杯に出場し、海外のビッグクラブでもプレー。
その一方で、両腕に腕時計を巻いたり、記者会見で「リトル本田が〜」と語ったりと、独自のキャラクターでも話題を呼んできました。
しかし彼は、ただのビッグマウスではありません。
芯にあるのは、「勝負」「挑戦」「覚悟」という言葉が似合う、強靭なメンタルと自己管理力。
その裏には、祖父母に育てられた幼少期の孤独、オリンピック出場が当たり前という異例のスポーツ一家、そして「世界一になること」を求め続ける人生哲学が隠されています。
そして今、本田圭佑は“引退していない現役選手”でありながら、教育・投資・国際貢献の場でも精力的に活動を続けています。
この記事では、そんな型破りでありながら人間味あふれる本田圭佑という存在を、「選手」として、「人」として、深く掘り下げていきます。
本田圭佑|今現在の活動と“引退しない現役選手”という生き方
本田圭佑は、2025年現在、どのクラブにも所属していません。
しかし本人は明言しています――「引退はしていない」。
この“現役続行宣言”は、世間の常識とは一線を画す彼らしいスタンスです。
実際の主戦場は、すでに“ピッチの外”
とはいえ、ここ数年の本田の活動を見ると、フィールドの中心はピッチ外に移っていると言えるでしょう。
まず注目されているのが、ビジネスと投資の領域での飛躍です。
彼が立ち上げたエンジェル投資ファンド「KSK Angel Fund」は、すでに200社以上のスタートアップ企業に出資。
その投資先には、日本国内の教育系サービスやスポーツテック企業だけでなく、AIやヘルスケア領域の海外ベンチャーも含まれています。
さらに、世界的俳優ウィル・スミスと共同で新たな投資ファンドを設立。
アメリカ市場でも本格的に動き始めており、そのネットワークと影響力は、もはや“サッカー選手”という枠を超えたものです。
カンボジア代表監督としての“リアルな挑戦”
ビジネスだけではありません。彼は2018年から2023年まで、カンボジア代表のGM兼監督も務めました。
アジアの小国に自ら足を運び、選手育成から戦術構築までを手がけたその姿は、ただの名誉職ではありませんでした。
「口だけじゃない、本当にやる男だ」と、国内外から高い評価を受けました。
さらに、教育事業「NowDo」では、日本の若者向けに“生きる力”を学べる場を提供し、オンラインでの講演や対話の場も定期的に設けています。
なぜ本田圭佑は“引退しない”のか?
>引退という選択をせず、今も現役を掲げ続ける理由。
それは「自分が“自分らしくある”ために、挑戦の火を消したくないから」――彼はそう語っています。
体力的にはすでに第一線ではないかもしれません。
しかし、どのフィールドにいても本田圭佑は“自分のベストを尽くす”。
それが、サッカーでもビジネスでも教育でも変わらない“本田スタイル”なのです。
<h2本田圭佑|生い立ちと人格形成のルーツ
1986年6月13日、大阪府摂津市。
本田圭佑は、実業家の父とスポーツ経験のある母のもとに次男として生まれました。
幼少期の大きな転機は、小学校2年生の時に両親が離婚したこと。
親権は父親側に渡り、以降は祖父母とともに生活を送るようになります。
実は、表から見える派手さとは裏腹に、彼の幼少期はどこか寂しさを抱えた時間でもありました。
兄と2人、家の前の道路、公園、空き地でボールを蹴るのが日常。
テレビゲームやおもちゃではなく、ただひたすらにボールと向き合う時間が彼の心を支えていたのです。
この頃からすでに、「誰に対しても負けたくない」という気持ちは人一倍強く、じゃんけんやゲーム、すべての場面で勝負を挑む性格だったと言われています。
その闘争心の裏には、どこか人に甘えられない、背伸びしながら生きる少年の姿があったのかもしれません。
また、4歳年上の兄・弘幸さんの影響も大きかった存在です。
兄が通うサッカースクールに憧れ、自分もやりたいと泣いて訴えたエピソードも残っています。
こうした環境が、彼の中に「目標を持つことの大切さ」と「それを自分で掴みに行く意思」を育てたのです。
中でも象徴的なのが、お祖父さんから常々かけられていた言葉
「何をやってもええけど、やるからには世界一を目指せ」
この一言が、後の本田圭佑の“信念”の根幹となります。
実は本田家は、筋金入りのスポーツ家系。
大叔父は1964年東京オリンピックのカヌー競技代表、その息子さんはレスリングで3大会連続五輪出場という経歴を持っています。
そのため「オリンピックに出るくらい、何も特別じゃない」という空気が家にあり、本田も「W杯は目指すけど、五輪はいいかな」と語るほどのスケール感で育っていったのです。
小学生時代は地元・摂津FCに所属し、中学では名門ガンバ大阪ジュニアユースへ。
ただ、高校進学のタイミングでは「スピード・スタミナに課題がある」とされ、ユース昇格を逃し、石川県の星稜高校へ進学することになります。
この「挫折」は、彼の中でさらなる闘志を生む原動力となりました。
また、家族の絆も深く胸に刻まれています。
本田はあるとき、小学生の自分でお金を貯めて、岡山にいる母に内緒で会いに行ったことがありました。
しかしそのことを、育ててくれていた祖父母や父親には一切話さなかった。
「気を遣う子やった」と祖父が語るように、子どもながらに“大人の事情”を理解し、周囲を傷つけないように振る舞っていたのです。
内に秘めた繊細さと優しさ、そして感謝。
表では「ビッグマウス」と見られることも多い本田圭佑ですが、その言葉の背景には、こうした“葛藤”や“孤独”が確かにあったのです。
そしてその繊細さを乗り越えるために、彼はあえて強くあろうとし、誰よりも高い目標に挑み続けてきた。
「強さ」は、彼の武器であると同時に、自分を守る“鎧”でもあったのでしょう。
所属クラブと年俸推移|常に“挑戦”を選び続けたキャリア
本田圭佑のサッカー人生は、「安定」よりも「挑戦」を選び続けたキャリアだった。
名古屋グランパスでプロのキャリアをスタートさせた彼は、若くして「海外挑戦」を明言し、実際にそれを成し遂げていく。
プロ1年目(2005年)の年俸はわずか450万円。
それでも本田は、「ここは通過点」と言わんばかりに自らの夢を語り続けていた。
その後、年俸は順調に上がり、3年目(2007年)には1800万円に到達。
まさにJリーグで着実に評価を高めていく中、彼は迷うことなくオランダへと渡った。
海外への挑戦
VVVフェンロでは2年連続6500万円という年俸を得ながらも、目指していたのはその先。
実力でチームの中心選手へと成長し、キャプテンマークを巻くまでになったことで、彼の評価は一気にヨーロッパ全土に広がっていく。
そして2009年冬、ロシアの強豪CSKAモスクワへ移籍。
ここでの年俸は一気に3億円に跳ね上がる。
寒さと文化の違い、過酷な日程など、日本人にはハードな環境とも言われるリーグだが、本田はピッチ上での存在感を見せつけた。
CSKAでは4シーズンに渡って主力として活躍し、安定して3億円台の年俸をキープ。
ロシアカップやリーグ優勝も経験し、欧州CLの舞台でもゴールを決めるなど、まさにキャリアの一つの頂点を築いた。
そして次なる挑戦は、少年時代からの夢――ACミラン
2014年の入団時、本田は背番号10を背負ってミラノの地に立つ。
年俸は一時、5億1000万円にまで上昇し、日本人選手としては当時最高クラスの待遇を得ていた。
名門ミランでの4シーズンは、栄光とともに批判や葛藤もあった。
だが本田は、「リトル本田がやれと言った」と語り、自らその重圧を背負って戦った。
ミラン退団後も彼の旅は終わらない。
メキシコ(パチューカ)、オーストラリア(メルボルン・ヴィクトリー)、オランダ(フィテッセ)、ブラジル(ボタフォゴ)、アゼルバイジャン、リトアニア、ブータン――と、世界各地を転々としながらピッチに立ち続けた。
晩年の年俸は600万円〜4000万円台にまで下がったが、それでも彼は「挑戦したい」「現役でありたい」という想いを貫いた。
サッカー選手としての“格”を守るより、自らの“信念”を守った生き方。
それが本田圭佑という選手の、最大の魅力であり、唯一無二の軌跡だった。
所属チーム一覧
シーズン | 所属チーム | 年棒 |
2005 | 名古屋グランパスエイト | 450万円 |
2006 | 名古屋グランパスエイト | 1000万円 |
2007 | 名古屋グランパスエイト | 1800万円 |
2007/2008 | VVVフェンロ | 6500万円 |
2008/2009 | VVVフェンロ | 6500万円 |
2009/2010 | CSKAモスクワ | 3億円 |
2010/2011 | CSKAモスクワ | 3億円 |
2011/2012 | CSKAモスクワ | 3億円 |
2012/2013 | CSKAモスクワ | 3億円 |
2013/2014 | ACミラン | 3億4000万円 |
2014/2015 | ACミラン | 3億4000万円 |
2015/2016 | ACミラン | 5億1000万円 |
2016/2017 | ACミラン | 4億5000万円 |
2017/2018 | パチューカ(メキシコ) | 5億2000万円 |
2018/2019 | メルボルン・ヴィクトリー(オーストラリア) | 3億2000万円 |
2019/2020 | フィセッテ | 3億3000万円 |
2020/2021 | ボタフォゴ | 6600万円 |
2021/2022 | ネフチ・バグー | 4000万年 |
2022/2023 | スードゥヴァ・マリヤンポレ | 600万円 |
獲得タイトル|クラブ・代表・個人の栄光
本田圭佑のキャリアには、クラブ・代表・個人と3つの軸で数多くのタイトルが刻まれている。
だが、彼のタイトルには“数”以上に“意味”がある。
それは、いずれも「本田らしい」ストーリーの中で獲得されてきたものだからだ。
クラブタイトル|異国の地で勝ち取った勲章たち
2009年に加入したロシアの名門・CSKAモスクワでは、
- ロシア・プレミアリーグ優勝(2012-13)
- ロシア・カップ(2010-11、2012-13)
- ロシア・スーパーカップ(2013)
というタイトルを獲得。
厳しい気候、言葉の壁、過密日程という過酷な環境下で「主力選手」として勝ち取った栄冠であり、欧州サッカーでの評価を一気に高めた。
そして2014年から所属したACミランでは、
- スーペルコッパ・イタリアーナ(2016年)を制覇。
ミランは当時、かつてのような黄金期にはなかったが、だからこそ彼の存在感は際立った。
サイドに流れて中盤を助け、守備に奔走し、時に試合を決定づけるゴールも記録。
「スター選手が揃わないミランを支える職人」としての価値を確立していた。
さらに本田は、欧州5大リーグ以外の地でもタイトルを手にしている。
- アゼルバイジャン・プレミアリーグ(2020-21)
- ブータン・プレミアリーグ(2024)
など、アジア・南米・中東といったあらゆる地域での挑戦が「結果」として実を結んでいるのだ。
代表タイトル|アジアを背負った男の栄光
日本代表としての最大のタイトルは、やはり2011年AFCアジアカップの優勝だろう。
この大会で本田は、出場5試合で6得点に絡む圧巻の活躍を見せ、文句なしの大会MVPに輝いた。
特に準決勝の韓国戦で見せたPK戦での冷静さ、決勝での気迫は、リーダーシップと勝負強さを象徴するものだった。
まさに「アジアの至宝」として、その名を世界に轟かせた瞬間だった。
個人タイトル|唯一無二の存在としての証明
- 日本年間最優秀選手賞(2010)
- AFCアジアカップ MVP(2011)
- アジア年間最優秀選手「ベスト・フットボーラー・イン・アジア」(2013)
- ミラン・ベストゴール賞(2015-16)
など、彼の活躍はクラブを越えて、アジア全体で評価された。
また、「ファーストペンギン賞」や「HERO’S OF THE YEAR」など、
社会貢献や先駆者的行動を評価されての受賞も多数。
これは本田が「サッカー選手」という枠を超え、影響力ある人物として社会にポジティブな影響を与え続けている証明だ。
本田圭佑のタイトルは、“勝った”という事実だけでなく、「どこで」「誰と」「どんな状況で」手にしたか――という“物語性”こそが、彼の真骨頂。
それぞれのタイトルが、彼の信念と行動の積み重ねの結果なのだ。
全盛期と記憶に残る名場面|“アジアの至宝”と呼ばれた理由
本田圭佑の“全盛期”を語るとき、多くのサッカーファンが思い浮かべるのはやはり――2010年南アフリカW杯から2011年アジアカップ、そしてACミラン加入前後の数年間だろう。
この時期の本田は、ピッチ上でまさに“支配者”だった。
2010年W杯南アフリカ大会|世界が本田を認識した瞬間
グループリーグ初戦のカメルーン戦、本田はゴール前でパスを受けると、ワントラップから迷わず右足を振り抜いた。
そのシュートがネットに突き刺さった瞬間、日本中が歓喜に沸いた。
「代表に本田がいて良かった」と誰もが思ったはずだ。
このゴールが、その大会での勢いを象徴する1点となった。
続くデンマーク戦では、代名詞とも言える無回転FKをゴール右隅に突き刺し、自らの評価を一段と押し上げる。
4試合2得点という数字以上に「勝負強さ」と「主役感」が際立っていた大会だった。
FIFA公式サイトでも「アジアの至宝(Asian Jewel)」と称賛され、世界中にその名を知らしめた瞬間だった。
2011年アジアカップ|精神的支柱としての完成形
日本代表の10番として挑んだアジアカップ。
本田は中盤でリズムを作り、時に前線まで上がっては決定機に絡んだ。
大会を通して日本が挙げた9ゴールのうち、実に6ゴールに関与するという絶対的な存在感。
とくに準決勝の韓国戦。
PK戦の1番手を任され、重圧の中で冷静に沈めた場面には、彼のメンタルの強さが如実に表れていた。
決勝では味方のゴールを演出し、優勝後には文句なしの大会MVPに輝いた。
「誰よりもチームのために」「誰よりも勝ちにこだわる」姿勢が、プレーを通じて伝わってくる大会だった。
記憶に残る“言葉”と“行動”の数々
彼のプレーが記憶に残る理由の一つは、“言葉とセット”で刻まれているからだ。
- 「リトルホンダに聞いたら行けって言いました」
- 「ビッグクラブで10番をつけたい」
- 「自信がなかったらこの番号は要求してない」
一見すると強気すぎるその言葉の裏には、誰よりも努力し、自己管理を徹底する姿勢があった。
ACミランで10番を背負いながらも苦戦した時期でさえ、逃げることなく矢面に立ち続けた。
そして2015年、ジェノア戦で決めた30mのミドルシュート――
これはサポーターによって「その年のミラン・ベストゴール」に選出されている。
本田圭佑の全盛期は、単なる好調期ではなかった。
「結果」と「言葉」と「覚悟」が重なった、説得力のある数年間だったのだ。
その姿に、憧れや勇気をもらったファンは数え切れない。
だからこそ、本田は「アジアの至宝」と呼ばれるにふさわしい選手だったのだ。
栄光と挫折|“10番”に背負わされた覚悟と代償
ACミラン入団会見
スーツ姿で現れた本田圭佑は、こう言い放った。
- 「リトルホンダに聞いたら“行け”と言った」
- 「自信がなかったら、10番は要求していない」
その言葉は全世界のメディアに取り上げられ、サン・シーロのファンも大きな期待を寄せた。
だがこの瞬間から、彼は「ミランの10番」として戦う宿命を背負うことになった。
背番号10が意味するもの
ACミランにおける“10番”とは、ただの背番号ではない。
過去にはルイ・コスタ、セードルフ、そしてレジェンドのボバンらが背負ってきた栄光の象徴だ。
本田の10番は、日本人選手として初の快挙。
だがそれと同時に、プレッシャーと批判、過度な期待という重圧がのしかかる番号でもあった。
2014年からの4年間で、ミランはクラブとして低迷期に突入。
監督はわずか4年間で5人が交代し、チーム戦術も毎年のように揺れ動いた。
その混乱の中で、チームにフィットしきれない時期が続き、スタメン落ちや途中出場も増えていく。
OBからの批判と、それでも逃げなかった姿勢
本田のプレーには、現地メディアやファンから厳しい声が寄せられた。
特に印象的だったのが、ミランOBたちからの辛辣なコメントだ。
元守備の名手・アレッサンドロ・コスタクルタは、
「現時点の本田は“10番”どころか、ミランの一員とも言えない」と酷評。
さらにカリスマ的存在パオロ・マルディーニも、
「救世主たり得るほどの力は本田にはない」と述べたこともある。
だが本田は、その言葉を受け止め、口ではなく背中で応え続けた。
試合に出られない時も、腐ることなく練習に打ち込み、クラブや若手にアドバイスを送り続けた。
そして2015年、ジェノア戦での30mミドルシュートで、自らの存在価値をピッチで証明した。
この一発は、シーズンのミラン・ベストゴールに選ばれるだけでなく、本田圭佑が「10番」として胸を張れる象徴的なゴールになった。
「10番じゃなければ」ファンが語った“もしも”の世界
ミランの情報サイト『ピアネタ・ミラン』は、あるコラムでこう綴っている。
「もし本田が10番ではなかったら、サポーターの反応も違ったかもしれない」
たしかに、“10番”という番号が彼に過剰な期待を背負わせたことは否定できない。
だが一方で、その番号に挑んだ彼の姿勢こそが、多くの日本人にとっての「誇り」にもなったのだ。
新たな挑戦と落差、それでも変わらぬ信念
2017年にミランを離れて以降、本田のフットボール人生はさらに多様化していく。
メキシコのパチューカ、オーストラリアのメルボルン・ヴィクトリー、オランダのフィテッセ、ブラジルのボタフォゴ、そしてアゼルバイジャン、リトアニア、ブータンへ。
年俸は最盛期の5億円超から600万円台にまで落ち込んだ。
それでも彼は「ピッチに立ちたい」「挑戦し続けたい」という気持ちだけを武器に、世界を渡り歩いた。
クラブ選びには、自分の思想や価値観と合うかどうかを最も重視し、契約交渉では「チームが勝てる環境か」「地域に貢献できるか」を何よりも優先した。
これはもう、プロアスリートという枠を超えた、生き方そのものだ。
本田圭佑にとって“栄光”とは、勝ち続けることではない。
“挫折”とは、夢を捨てること。
彼は一度も、夢を捨てなかった。
その姿勢こそが、多くの人の心を動かし、今も世界中にファンを生んでいる理由なのだ。
家族と結婚生活|愛する人への一目惚れと変わらぬ絆
本田圭佑の人生には、どんな世界的クラブでの活躍にも負けない「映画のような出会い」がある。
2008年、彼は一般女性と結婚した。
その奥様との出会いは、まるで青春ドラマのワンシーンのようだった。
試合中に一目惚れ。
告白は“その場”で
本田がまだ高校生だったころ、ある練習試合での出来事。
対戦相手チームのベンチにいたマネージャー。それが、のちに妻となる女性だった。
「試合中に一目惚れした」と本人は語る。
そして、試合終了後、なんとその場で「好きです」と告白したという。
試合の勝敗よりも大事な“何か”を得たその瞬間。
まさに、本田らしい行動力と直感の賜物だった。
その告白に、奥様も戸惑いながらもOKを出し、ふたりの交際が始まる。
高校時代からの純愛を経て、彼女は本田のヨーロッパ挑戦など
あらゆる場面で支え続けた。
家族への愛、表には出さずとも深く
夫婦の間には3人の子どもが生まれ、現在は家族5人での生活を送っている。
本田自身は、プライベートに関しては多くを語らないタイプだが、週刊誌にキャッチされた数少ない家族写真では、終始柔らかな笑顔が印象的だった。
特に奥様は「相当な美人」として知られ、SNS上でも話題になることが多い。
華やかなルックスだけでなく、何より「世界中を転々とする夫の挑戦を理解し、支え続けている芯の強さ」が、ファンからも高く評価されている。
家族だけが知る“素顔”の本田圭佑
「誰よりも負けず嫌いで、誰よりも繊細」
これは、かつて本田の祖父が語った言葉だ。
サッカーの舞台では常に大きな目標を掲げ、強気な言葉を放ってきた彼だが、家族の前ではまったく違う表情を見せることもある。
子どもたちの前では、時に全力で鬼ごっこをし、時に勉強を見てあげる父親としての顔も持っているという。
世界を舞台に戦ってきた本田だが、その“戦う意味”の根底には、家族という支えが確かにあるのだ。
どれだけ国を渡っても、どれだけ名声を得ても、
彼にとっての「帰る場所」は、家族の笑顔と、あの高校時代に出会った女性のそばだった。
まとめ|本田圭佑という生き方に学ぶこと
「サッカー選手」という言葉だけでは、彼を語りきれない。
本田圭佑という存在は、競技を超え、人生そのものを懸けた“挑戦者”の象徴だ。
VVVフェンロで無名から這い上がり、モスクワで結果を出し、世界的ビッグクラブACミランで“10番”を背負った。
世界の7か国を巡りながら現役を続け、ビジネス・教育・投資・社会貢献という複数の分野で影響を与え続けている。
その生き方の原点にあるのは、常にこうした哲学だ。
- 「弱い自分に、打ち勝て」
- 「夢は口に出すもの」
- 「本田△(さんかっけー)」
と呼ばれるのは、強さだけじゃない。
むしろ、本田圭佑の魅力とは、強さを演じることで、自分を奮い立たせてきた繊細さ、
そして「どんな場所でも逃げずに立ち向かう背中の美しさ」にあるのではないだろうか。
ビッグマウス、変わり者、プロフェッショナル、リーダー、教育者、父親…。
さまざまな顔を持ちながら、どのフィールドでも“真剣勝負”で生きる姿勢を貫いてきた。
そして今もまだ、彼は「引退宣言」をしていない。
ピッチに立つ可能性も、経済の世界で大きなムーブメントを起こす可能性も、十分に秘めている。
「自分を信じ続ける力」こそが、彼の最強の武器。
それはサッカー選手だけでなく、すべての人にとって、明日を生きるヒントになるのではないだろうか。